xtetsuji) です。
おがた (@最近ブログを書けていないので、軽めの話題でも書こうという試み。
そういえば、時々聞かれる「なんでバスが好きなんですか」という質問。回答に使える制限時間や、その時に考えた出来事など、その時々に応じて回答がそこそこ違っていて、一度まとまった回答を書いておきたいと考えていました。
というわけで、路線バスが好きになったキッカケ、そして最近の路線バスに思うことを書いてみます。
Contents
小学校入学前の自分
小学校入学前までの未就学児時代は、当然ながら自発的に公共交通機関に乗ることはありませんでした。自宅は田舎(北海道帯広市の隣町)ゆえ自家用車が欠かせないわけで、自家用車があって父が運転していました。
とはいえ、生活の中でバスや列車に乗ることはしばしばありました。
まずは列車。電化された電車ではなく非電化ディーゼルの列車です。
私は生まれつき足が悪く、帯広市にある産婦人科で生まれたのに、足の治療のため生後すぐに釧路市(自動車で130kmほど)の病院に通うことになります。なんでも、当時(昭和50年代)の帯広市にはレントゲンが無かったらしく、それが理由で釧路市の病院へ通院することになったとのこと。しかし、今でも「昭和50年代に帯広市にレントゲンが無かったの嘘でしょ?」と思ったりも。
次に本命のバス。
自宅には自家用車がありましたが、それは父の通勤用でもあり、当時の父は超多忙で、結果的に当時運転免許を持っていなかった母と出歩く際にはバスに乗ることになりました。
列車にもバスにも時々乗っていた未就学児時代でしたが、明確にバスが好きという気持ちまではなかったまでも、列車とバス、それぞれの印象は分かれていきます。
長時間乗車と列車酔い
上述の通り、列車は釧路市にある病院への通院だったわけですが、いくつかの理由があってあまり楽しいものではありませんでした。
まずは帯広駅から釧路駅までの乗車が長時間に及ぶこと。当時から特急列車は走っていましたが、お金がない我が家は普通列車に乗ることになります。今でこそ最新鋭の特急列車で1時間30分程度の行程ですが、当時の各駅停車の普通列車では3時間くらいは乗車する必要がありました。未就学児の3時間乗車は控えめに言ってキツイ。
3時間乗車それ自体もキツかったのですが、子供の頃の私はかなり列車酔いをする体質で、3時間列車に乗っていて釧路駅に到着した頃には、列車酔いの気持ち悪さでグッタリしていました。
今でこそ列車酔いもしなくなり、長距離公共交通機関に3時間程度乗るくらいなら平気になりましたが、未就学児の頃に年に何回も上述のような列車体験をしていた私にとって、列車(電車)はネガティブな体験の象徴でした。この長時間通院体験は小学校を卒業する頃まで続きます。
バスの操車場がある自宅近く
上述の通り、生活のため母に連れられてバスに乗ることがたびたびありました。
列車のような乗り物酔いがバスで起こらなかったことにより、列車と比べてもバスに乗っている時は平穏でした。
その他、小学校入学前まで住んでいた自宅(実家)はバスの終点の操車場のすぐ近くにあり、遊び場所から移動する時に操車場に停車しているバスをよく見ることができました。操車場でのバスの転回方法が面白かった思い出があります。
バスと内輪差
操車場でのバスの転回方法の話を書きましたが、バスの運転方法は自家用車には見られない独特のものがあり、幼いながら興味を持って観察していました。
列車の場合、前面で観察する機会が得づらいこと、そもそも列車酔いで余裕がないこと、ハンドルにまつわる運転技法が通常無いこともあり、列車の運転方法に興味を持つことが無かったのだと思います。
バスの運転方法で自分の興味を引いたのは、とても狭い交差点を左折する際に、いったんハンドルを右に切って一瞬右に曲がるようにしてから一気に左にハンドルを回して交差点を大回りするもの。
バスのように長い車両は、狭い道路の左車線ギリギリを走っている流れでそのまま交差点を左に曲がろうとすると車体の左側を交差点の角に巻き込む可能性があります。これは内輪差という言葉で知られている概念です。横断歩道で信号待ちをしている歩行者や左側道を走っている二輪車との巻き込み事故を防止する意味もあります。
「どうしてこういうハンドル操作をするのだろう」と、子供の頃の自分は長い定規をバスに見立てて何度か屋内の床で実験をして内輪差に当たるものを見出しました。バスが好きだと意識することはありませんが、それくらい当時の私にとってバスの運転方法は興味深いものでした。
高校2年生で数学を志すまでまだ10年くらいありますが、私が最初に発見した数学的概念は内輪差だったのかもしれません。
もっとも上述のような左折の際に右にハンドルを切って大回りする方法は、Wikipedia の内輪差の記事にも書かれている通り、道路交通法としては原則的に禁止しています。大型車両の車体の左側に十分な空間を確保することができない狭い道路と交差点という悪条件の場合の例外事項といってもよいでしょう。私はそれを真似て自動車教習所でこの曲がり方をしたら教官に怒られた記憶があります。
小中学生時代は贅沢品のバス乗車
小中学生時代の12年間は、バスは贅沢品でした。そりゃ小遣いが数千円の時代に、片道300円くらいのバス運賃の負担は大きなものです。その頃は、もっぱら買ってもらった自転車で雨の日も風の日もひたすら移動する日々でした。
この頃はまだ特にバスが好きという感情もなく、節約のために自転車に乗っていた時代です。
冬の高校時代のバス通学
自転車で20分程度の場所にある帯広市にある高校に合格できたので、夏場はお金の節約のため自転車通学でした。実際、田舎のバスの本数は年々少なっていき、通学時間帯のバスは30分に1本といった状況。朝から夜まで「ふらっと行ったら乗れる」感覚で便利に使えるというレベルではなく、時間を合わせて停留所まで行く必要がありました。
雨の日も自転車通学でしたが、終日大雨だったりする場合は夏場でもバスに乗って通学していました。
冬場はというと、高校によって積雪対策のため11に月24日から来年3月末まで明確に自転車通学が禁止になるのが特徴的。なので11月24日はバス通学再開の日のような印象を今でも覚えます。
自宅と帯広市を結ぶバスは1時間に1本程度でしたが、田舎の交通機関は不便なことは前提だったので、特にネガティブな印象を抱くことはありませんでした。
上京して電車に痛めつけられる
大学進学で東京に上京しました。やはり貧乏なので、東京でもすぐに自転車を購入し、通学も自転車を使い込んで交通費を節約しました。
といっても、東京は梅雨だったりゲリラ豪雨(当時は夕立と言っていた)が頻発したりで(北海道には梅雨もない)、田舎よりも自転車にとって悪条件が重なります。そういうときは電車を使うのですが、とにかく、乗ったら「様々な要因によって死ぬのでは!?」と思うほどの劣悪な環境であることは書くまでもないでしょう。上京して大学院を卒業するまでの6年間は西武新宿線沿線に住んでいましたが、高田馬場駅のホームに人が多すぎて(当時ホームドアは当然無かった)、ゲーセンにあるコインゲームのように押されてホーム下に落下するのではと乗るたびに思っていました。
それでも、東京はそういう場所と割り切ること、可能な限り自転車を使うことで乗り切っていました。
大学時代の後半とバスへの再注目
自転車通学で通学費の節約をしていた大学時代でしたが、大学の前にいると本当にバスが頻繁に通ります。
「頻繁に」というの、たしかに田舎の地元でも帯広駅から音更町に入って国道241号の幹線道路を通るバスは全ての系統をまとめれば10分に1本くらいは走っていました。しかし、東京で私が見たバスは、同じ系統のバスが多い時間帯で6分に1本くらい走っているのです。驚愕。
私が見たその路線は、白61と呼ばれている都営バスの路線でした。
この頃から都営バスの事を少しずつ勉強し始めます。
大学を卒業すると同時に学生契約だったアパートを出ることになり、江古田に住み始めます。特に東京に住みたい場所は無かったのですが、江古田を選んだ理由は白61の沿線だったからです。
社会人と通勤電車の始まり
大学院を卒業し、(2ヶ月の無職期間を経て)1社目にアルバイトとして入社しました。
自宅が江古田、会社が南大沢(八王子市)という遠距離の通勤でした。当然自転車が使える距離ではないので電車を使うことになりましたが、当時の大江戸線がそこまで混雑していなかったことと、新宿駅からの京王線はラッシュ方向とは逆方向の乗車だったので、そこまで満員電車を意識することがない数年間でした。
その後、西新宿、初台と会社が移転しますが、ほぼ大江戸線の区間のみになったというだけで、そこまで満員電車に長時間乗るという苦行にならなかったことは幸いです。
とはいえ、電車に乗っていても幼少の頃からの体験であまりポジティブな気分にはならないわけで、なんとか電車通勤を減らす方法を考えていました。
自転車通勤と本格ロードバイク、そして交通事故
その後、2004年に会社は西新宿にある新宿NSビルに移転した後、半年程度でさらに初台の雑居ビルへ移転します(賃料の問題が移転の理由)。
会社が初台にあった時代、自宅から中野通りを自転車でまっすぐ 7km ほど南下すれば会社に近づけるということを知り、電車通勤を自転車に置き換えて健康・節約・開放感を得ようと、しばらく自転車通勤をしていました。
学生時代を終えてから自転車をあまり乗らなくなっていましたが、久々にまとまった距離を毎日乗ることになります。この頃は仕事も超絶忙しかったのですが、自転車に熱心だった同僚達に自分の自転車遍歴(ママチャリではありますが)を知られ、ロードバイクの購入を勧められてロードバイクを購入したり、その同僚達にホノルルセンチュリーライドに連れて行かれて160km(100マイル)のレースに出場するなどします。
高価な自転車ではあるものの、今までママチャリだった自分にとって、移動の手段としての自転車においてスピードが出ることはありがたいことでした。今もそうですが、自転車をスポーツとして見ることはあまりないです。
しかし、このスピードがあだとなり、ある日の午前中の通勤途中にタクシーと衝突事故を起こし、道路に勢い良く跳ね飛ばされ頭を強打して意識を失うことになります。事故時刻は午前11時前でしたが、目が覚めたのは夕方4時過ぎ、場所は中野区の総合病院の脳外科のベッドでした。
この事故についてはまた別の記事で書こうと思いますが、とにかく「東京で自転車は何かと危ない」と思うようになりました。もっとも、大学時代も何回か自動車との接触事故を起こしたり、1社目の会社に面接に行く少し前の時期にブレーキ故障で下り坂で転倒して大怪我をしたり、田舎の高校時代までは無かったような危険な経験を何度もしていました。
この事故以降、自転車に乗ろうという気も起こらず、高価な自転車も乗ることも少なくなり、いつしか一切乗ることがなくなりました。何年も分解したまま自宅のアパートのドアの前に分解した状態で置いたままホコリを被った自転車は、すでに組み立てて乗ることができる状態でもなく、大家さんの勧めで廃棄することになりました。
バスの再評価と乗車活用
自転車に乗らなくなったことで、徒歩による移動がメインになっていきます。
とはいえ東京はそこそこ広く、しかも電車は乗り心地が悪い。このあたりから積極的にバスに乗車していこうという機運が高まってきます。
長らく初台にあった会社が八幡山に引っ越した際(住所的には杉並区上高井戸1丁目)、バス通勤を試してみることにしました。
いくつかのバス乗り換えを試してみましたが、最終的には中野駅前と柳窪を経由する関東バスを3本乗り継ぐルートでした。
もちろん、普通に大江戸線と京王線を乗り継いで行くより時間はかかります。とはいえ、バス乗り継ぎでかかる時間は電車乗り継ぎでかかる時間の2倍を若干下回るくらいなのは、私にとっては許容範囲でした。
大江戸線では座れないけれどこの路線のバスではほぼ必ず座れること、座ってノートパソコンを広げることで仕事の時間にあてることができること、そして経由地で食事ができることなど、時間がかかることを補って余りあるメリットがありました。
この話をすると「バスだと高いのでは?」と言われることが多いのですが、実は乗り継ぐ3本のバスは全て関東バスだったことで関東バスの全線定期券が使え、その全線定期券が月9000円(当時)だったため、実は大江戸線と京王線の定期券を買うより安かったのです。
移転した2010年から私が2013年に退職するまで会社は八幡山にありましたが、退職までバス通勤を続けていました。ちょうど2010年は radiko が出てきた年で、まだ珍しかった iPhone (当時は 4 前後)で radiko を起動して朝の通勤途中のバスの中で J-WAVE でクリス智子の朝のラジオ番組を聴くのが日課でした。
関東バスの全線定期券は当然休日も活用できるので、無駄にひたすらバスに乗っていた気がします。お金をあまり気にせずバスに乗れる環境になったことで、バスに乗って有用な面を見出していくことになります。山手線の西側の区部は都営バスが弱く、生活圏内では関東バスを主な乗車バスとしていました。
東日本大震災と交通の冗長化
2010年以降ひたすらバスに乗り、自分の生活圏内にある有用なバス路線を見つけることがライフワークとなっていきました。
電車の倍の時間をかけてバスに乗る私を悪いネタとして扱う人もいましたが、そんな私の知識が会社の人達から注目されたのは2011年3月11日の東日本大震災のときでしょう。なにせあの日、電車はほとんど止まってしまったのですから。
当日は14時46分の地震発生で外に避難して1時間ほど待機しましたが、業務継続が難しいことから会社は帰宅指示を出します。とはいえ、京王線の八幡山駅に行った人達はみんな戻ってくるか、(当時会社のコミュニケーションツールだった)IRCで「電車が動いていないので駅前のファミレスで時間を潰している」といった発言をします。
京王線は止まっているけれど、新宿まで出たいといった人達に尋ねられ、私はバスの乗換えルートをいくつか提案します。また東京では一般的になりつつあったウェブのバス接近情報で、多少の遅れを伴いつつもバスは動いていることを確認したりしていました。
私はと言うと、新宿まで行きたいという人を中野駅前まで案内しつつ、いつものバスルートでほぼ普段通りの時間に帰ることができました。
この時に思った問題点は以下。
- 東京が人口過密の限界を超えていて、田舎からすれば些細な震度5強でも都市機能が麻痺する
- 田舎は人がほとんどいないから被害が無いという揶揄はあながち間違ってはいないものの、職住近接が蔑ろにされ帰宅難民という概念が発生する状況にも疑問を持ちたい
- 効率化を急ぐあまり、電車のみに依存した交通インフラ
- 電車に限らず、特定の一つに依存しすぎるのが良くない
最近
2013年に最初の会社を退職した後、次の会社を事情により10ヶ月で退職した後は、半年ほど無職で日本各地を巡っていました。
日本最大の都市である東京は、どちらかというと大量輸送に特化した鉄道に特化しており、バス路線網は昭和の頃よりは少なくなっているようです。
しかし、大規模なバス路線が維持されている地方都市もあり、日本各地を巡る中で私の興味をひくこととなります。
特に京都・福岡・沖縄はバスファンに嬉しい巨大なバス都市でしょう。
2015年に一度「東京」と「IT」から本気で離れようと思った
と書きましたが、様々な考えから「東京」と「IT」からは距離をおいた方が良さそうだと思いつつ、次の仕事は地方でバスの運転手も悪くないと思っていました。結局、2017年も東京のIT企業で働いているのですが。
過疎地と鉄道のバス転換について
最近話題のこの話題について少し。
昨今、北海道では利用者がほとんどいない鉄道駅や鉄道路線の廃止が話題になっています。交通の多様性が損なわれる事は憂慮すべきことではありますが、バス転換を必要以上に悪く言うメディアや地方自治体には正直眉をひそめます。
もちろんデメリットはあります。速達性や定時性が損なわれることもありますし、なくなったという事実自体がネガティブに伝わること、バス転換を皮切りに今後徐々に何もなくなってしまうのではという恐怖も無視できません。日本において「鉄道」の存在自体がブランドとして確固たるものだということもあるのでしょう。
鉄道駅の廃止と鉄路の廃止は分けて考える必要はあるかもしれません。現に主役が客車ではなく貨車(貨物)である路線は郊外に多くあると思います。有名なものは北見からの玉ねぎ列車でしょうか。貨車が走る路線については、鉄路維持に関わる諸経費に対する貨物会社の積極関与であったり、長距離トラック運転手の不足といった要因からの鉄道へのモーダルシフトといった要因が事態打開に有効かもしれません。
また「思い出の場所だから」という「センチメンタル・バリア」も分けて考える必要があります。この考えが働くのは駅が多いかと思いますが、それのために鉄路も含めて膨大な維持費をかけ続けるべきなのかは一度冷静に考える必要がありそうです。私はこれについて明確な答えを持っておらず、センチメンタル・バリアについては「難問だ」という見解です(「センチメンタル・バリア」という言葉は野口悠紀雄氏の「「超」整理法」で触れられているそれに近いです)。
ここでは貨車ではなく客車、つまり一般乗客を駅から駅へ運ぶ形態の列車のみ考えます。
私も「交通の多様性が損なわれることは憂慮すべき」と書きましたが、使われないインフラの維持に莫大な経費がかかることも忘れてはいけません。特に鉄道の維持費は多くの利用形態がある道路に比べ割高であるとも聞きます。
「だから鉄道ではなくバス」というのも早計ではありますが、1日利用者1人未満(つまり年間総利用者数が365人未満)の駅は本当に必要なのかという疑問にさらされるのも仕方がないでしょう。
地元の新聞を読んでいても、インタビューを受けた町村の自治体による「使われているかもしれない」「観光客が使えなくなる」という発言を時々見ますが、数値的には「使われていない」「そういう(鉄道を使ってそこに行く)観光客はいない(レンタカーや観光バスなど別の手段を今も使っている)」を端的に表しているわけです。
私も鉄道がむやみに無くなって欲しいと思っていないですし、バス転換をことさら悪く言う人にも疑問を覚えますが、よく考えるのは「鉄道と観光はそんなに強固にリンクしているのだろうか?」という疑問。鉄道をなくせば観光は消滅し、鉄道を作れば観光ができるのでしょうか。
そういう側面は確かに少なくはないでしょう。鉄道自体が観光資源化する場合もあります。ただ、鉄道がないと近隣の観光も即成り立たないという論説は、その観光資源に対していささか失礼な気もします。本当に魅力的な観光地であれば、観光客は鉄道が無くてもなんとか行こうとするでしょうし、バスをはじめとした陸路や空路の他の交通インフラ事業者が他の移動手段を開発してくれることでしょう。
そういう意味では、鉄道マニアの他にも、「鉄道があるからその観光地を認識することができて、鉄道に乗れば観光地に行けるくらいに考えるライトな観光客」を遠ざけてしまう効果はあるでしょう。その影響度が大きい観光地もあれば、実はそれほどでもない観光地もありそうです。
世界有数の観光地のバスを見習う
前述のホノルルセンチュリーライドのためにハワイ・オアフ島に行った時、センチュリーライドの次の日は疲労が限界状態だったため、海に行く同行者達とは別行動を取りました(泳げない・暑がりだというのもある)。
ハワイには TheBus という巨大な公営バス組織があるのですが、その日は正午前後にハンバーガー屋で食事をした後は、20ドル4日間乗り放題チケットを買ってひたすら TheBus を乗り続けていました。TheBus を使うと、オアフ島の様々な観光スポットに行くこともでき、乗っているだけで車窓も楽しめるものでした。バス好きでなくとも良い観光体験ではと思います。
ご存知の通り、2017年現在ハワイ・オアフ島には鉄道はありません(2018年にホノルルレールトランジットが開業します)。しかしハワイ・オアフ島は世界有数の観光都市です。観光客はバスを利用し、バス事業者はバスを増やし、そして渋滞がひどくなるという負の側面がありますが、鉄道はバスが観光を育ててからでもいいのかもしれません。バスの楽園でもある沖縄本島とゆいレールの関係も似た事情でしょう(アメリカは離島の広さでは鉄路より道路を重視しているようで、戦後の沖縄統治下とハワイ州の政策にも似たものがあるのかもしれません)。
「バスのどういうところが好きですか?」と聞かれたら、一つは狭隘路線を縫うバスの運転テクニックと答え、もう一つはバス路線の地域に根ざした細かさとバス停留所の配置文化と答えることが多いです。
人口減少時代は、バスだって過疎化の影響を受ける時代です。しかし、地方自治体や観光団体と連携して「乗りたくなるバス」を作ることは、バスが好きな自分として機会があれば取り組んでみたいジャンルの仕事です。いつかはこの夢が実現できればいいな。
「乗りたくなるバスを作る」「なぜ人々はバスを利用しないのかという真実に迫る」という試みは、十勝バスが取り組んだ興味深い事例があります。十勝バスはこの一連の試みで、地方路線バスでは異例とも言える黒字化を達成したとのことです。
十勝バスの「なぜ人々はバスを利用しないのかという真実に迫る」試みは、バス好きやバス関係者だけでなく、利用してもらって収益が上がるあらゆる業種が学ぶことができる、そんなお話です。
次に地元に帰った時は、久々に十勝バスの長距離路線に乗って、田舎の風景を楽しみつつ、バスと地方都市の時代を夢見ようと思います。